「南無といふは、凡夫の願を成じ給ふ義、阿弥陀仏と云ふは、我等往生の行に替わりて成じ玉へる義なり」
西山上人(善慧房證空上人) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%BC%E7%A9%BA
西山浄土宗とは法然上人を宗祖とする佛教宗派です。
ご本尊は阿弥陀佛(如来)です。
承安五年(1175年)、法然上人四十三歳の年に善導大師の書かれた『観無量寿経疏』(通称『観経疏』)を拝読された法然上人は、阿弥陀さまが佛さまとなられる前の法蔵菩薩であられた時に誓われた「全ての衆生を救いとらなければ佛とはならない」という願い(本願)を成就されて阿弥陀佛という佛さまになられた佛さまであり、既に私たちは救われているのだと気がつかれました。
私たちはその事に気がつかずに生きていますが、佛さまの救いの中にいる、佛さまに願われて生きていることを知った時にありがたさ・かたじけなさから湧きい出てくるのが南無阿弥陀佛という名号、お念佛でございます。
法然上人は阿弥陀さまの願いに出会われて、比叡山延暦寺を下りて現在総本山光明寺のあります粟生広谷の地にて南都遊学の際に約束を交わした高橋茂右衛門へ念佛の教えを伝えられました。
日本で初めて他力本願念佛の教えを広められたのです。
そしてそのまま同地にて、同じく念佛の教えに生きられていた遊蓮房円照の庵にて二年ほど念佛の日々を送られます。
その後同地には法然上人の弟子となった熊谷次郎直実こと法力房蓮生が念仏三昧院を建立し、日本で初めて本願念佛の教えを同地にて広められた法然上人を開山としました。
後の総本山光明寺となり正親町天皇の綸旨により「浄土門根元地」つまり日本の念佛の根本の地として今も念佛の教えを守り続けています。
遊蓮房円照の往生の後は、東山の吉水に住み、阿弥陀さまの救い、そしてお念仏の教えを別け隔てなく広められました。
一心に阿弥陀さまの救いの中にいることに感謝して南無阿弥陀佛とお称えしましょうと法然上人は人々にお伝えになられたのです。
当時は佛さまの教えというものは「難しいもの」「修行は誰にでもできるわけでないもの」でした。
限られた人だけが佛さまの教えに接することができたのですが、法然上人の出会われた本願念佛の教えは「いつでも」「誰でも」知ることで実践することができる佛のみ教えでございます。
そして「阿弥陀さまの救い」とは「全てのものを西方極楽浄土へ往生させる」というものです。
それを言いかえると「全てのものが佛の教えに出会い佛となる道」でございます。
私たちが阿弥陀さまに出会うことにより、佛の教えに出会い佛となる道を知ります。
それが私達の信仰であり、それを往生と申します。
法然上人の元には老若男女問わずその教えを聞きに来られたそうです。
その中には西山浄土宗の流祖となる善慧房證空上人のお姿もございました。
後に京都の西山にある善峰寺北尾往生院(現在の三鈷寺)に住まわれたことから西山上人と呼ばれるようになりました。
法然上人が西方極楽浄土へ往生されて後に、法然上人の教えを受け継がれる方々によっていくつもの流れが生まれました。
西山上人こと善慧房證空上人も法然上人の教えを受け継がれ、西山派という一つの流れとなりました。
西山浄土宗とは法然上人と西山上人の教えの流れを受け継ぐ宗派でございます。
西山浄土宗 われらの信条
一、われらは 苦悩(なやみ)を救いたもう 阿弥陀佛に帰命し奉る
苦悩(なやみ)とはお釈迦さまがさとられた「人生は思い通りならない」「人は四苦八苦から逃れられない」という「真理」です。その苦しみから脱するにはさとり、佛となる、つまり「成佛」するしかありません。阿弥陀佛のさとりは「全ての人を救い佛とする」はたらきです。その「さとり」を知り、そのはたらきに全てを任せることで私達は苦悩の中で生きながらも救われる信仰の道を歩めるのです。それを「他力」と言い、その「さとり」を本願と言います。
一、われらは 佛の大悲を悦び つねに名号を称え奉る
阿弥陀佛の救いのはたらきは、苦悩の中で生きる私達を救いたいという願いによるものです。それを「大悲」と言います。阿弥陀佛の「大悲」の心は私達には見えません。なので「南無阿弥陀佛」という名号(みょうごう)に、阿弥陀佛の願いとはたらきを私達にわかるように示されたのです。その名号を称える(となえる)ことは、私達が阿弥陀佛の大悲心を知り、それが私達の心底にある「苦悩から逃れたい」という願いと合致することを知るさとりのはたらきであるのです。そのさとりは十劫正覚というはるか過去に成就されたさとりで、私達は今までそれを知らずに生きてきました。今、それを知り、佛の願いと私の願いが合致することで南無阿弥陀佛という名号は佛の本願であり、私の本願となります。それがまた「さとり」であり、佛と私達の悦びなのです。その悦びの気持ちが自然と発生することで、名号を称え奉る報恩感謝の中で生きることができるのです。
一、われらは 佛のみ心をうけて 人の世の光とならん
南無阿弥陀佛という名号を私達が称え、報恩感謝の中で生きるということは、阿弥陀佛の願いを知り生きるということです。阿弥陀佛の願いが南無阿弥陀佛であり、私達がまた南無阿弥陀佛となることです。私達は必ず佛となる、それは阿弥陀佛と同じさとりのの佛となることです。南無阿弥陀佛を称え報恩感謝の中で生きる中で私達もまた南無阿弥陀佛として生きることができるのです。南無阿弥陀佛として生きるということは、私達の身体の寿命が尽きても、西方極楽浄土という阿弥陀佛の世界に往生し、また南無阿弥陀佛として私達は生きる事です。